『明日なき森林-カメムシ先生が熊野で語る・後藤伸講演録-』(熊野の森ネットワークいちいがしの会編/新評論/2800円+税)
 後藤伸という名は南紀のナチュラリストとしてはるか昔から記憶の中にあったのですが、著書や論文を直接読んだことはなく、没後に刊行された講演集で初めてその考えにふれることができました。遅ればせながら、後藤氏が単なるナチュラリストではなく思想家であり実践家であったことを知ったのは大きな収穫でした。採録された講演の中で、後藤が繰り返し述べていることには、大きくみて二つの点があります。一つは紀伊半島、特に南紀の自然環境の特異性ということで、山地性の種が低地にまで分布していたり、逆に南方性や海岸性の種が山地にまで広がっていたりすると言います。その特異性の象徴がウバメガシで、一般には海岸に生えるとされるこの木が、南紀では1000mを越える山頂にまで分布しているのだそうです。ブナ科を食草とする北方系の種の中に、このウバメガシに食樹を替えた種があって、それが特異な分布を作っている要因の一つにあげられています。その他の要因として、南紀は谷が非常に入り組んでおり、その谷底では夏にも冷涼な気象条件が保たれること、各地に岩肌が露出した崖が多くあり、競争力のない種の逃げ場所になっていることなど、さまざまな条件が複雑な生物相を作り上げていることを述べています。南紀の照葉樹林は、カモシカやヤマネも棲む森だそうで、我々関東に住む者が、照葉樹林の本当の豊かさを知らないことを思い知らされます。もう一つ強調されているのは、戦後の拡大造林によって、大面積に照葉樹林が皆伐され、人工林に変わったことが、生物相を失わせたことはもちろんのこと、保水力を低下させ水害を引き起こしているという指摘です。後藤によれば、林業国であった紀州は、既に戦前から広く植林が行われていたが、それは植林に適した場所だけを選んで行われており、自然林を多く残すことが、良質の木材を生産する条件であることを前提とした山の利用がされていたとのことです。一つの山で植林に利用してよいのはせいぜい3分の1で、残りは自然林として残さねばならなかったし、それは掟のようなものとして長年守られてきたと言います。戦後は、とにかく広い面積に植えることが優先されて、不適地にまで植林が及んでしまった、その不適地の人工林は早い時期に自然林に復元していくような努力をしていかねばならないと強調されています。巻き枯らしという具体的な方法で植林を枯らし、自然林に戻していく取り組みも後藤が提唱したもので、編者になっているグループはその遺志をついだ活動を行っています。山の自然についての智恵や洞察を、戦後の日本人が失ってしまったというのが、後藤の文明観でもあります。その智恵の象徴として1章に登場するのが、栗栖太一という人物で、炭焼きをしながら周りの動植物のことを知り尽くしていたさまがユーモラスに語られます。全体として、紀伊半島の森の変遷について、多様な側面から紹介した好著だと感じました。(2008/11)