『劔岳<点の記>』(新田次郎著/文春文庫/686円+税)

『神々の山嶺』(夢枕漠著/集英社文庫/上巻724円+税;下巻800円+税)

 今年の夏は会津駒、伯耆大山とよい山歩きができたので、気持ちも山に向かい、山岳小説を読んでみたいと思いました。ところが、日本では新田次郎以降、目立った山岳小説家は生まれていないようで、結局読み残していた新田の作品を何点か読むことになりました。この1冊は新田の代表作の一つですが、明治時代末期に陸軍参謀本部陸地測量部の測量士として劔岳の登頂に成功した柴崎芳太郎という人物を描いたものです。当時の測量の困難さは想像を絶するもので、ルートのない山に分け入り、何ヶ月も野営を続けながら三角点を設置し、測量を続けていったのだと言います。そうした努力が現在の地形図にも引き継がれていると考えると、地形図1枚であっても襟を正して見る気持ちになってきます。劔岳測量が具体化する直前に日本山岳会が組織されて、会としても劔岳を目指す動きが生まれ、登頂を競うような結果になったのが、小説のもう一つのテーマになっています。山頂に到達した測量隊が、古い時代に奉納された剣と錫杖を発見したくだりは、よく紹介されますが、黎明期の登山と、そこに果たした測量隊の働きを再認識するよい本でした。映画化も進んでいるそうで、大活躍する地元の集落の人たちがどのように描かれているか楽しみです。さて、目立った山岳小説家はいないと書いたのですが、1つの例外が『神々の山嶺』という作品です。エベレスト南西壁の冬季単独登頂を目指すクライマーを主人公とし、その登山家に惹かれていくカメラマンが語るスタイルをとった物語です。何よりも、8000m峰での登攀のディテールが丹念に書き込まれ、臨場感にあふれた描写になっています。山男の鼓動が聞こえたり体臭が漂ってくるような生々しさが、最大の特徴と言えるかもしれません。シェルパ族をはじめとする何人かのネパール人の造形も鮮やかで、著者には人間を浮かび上がらせる筆力があるようです。しかし、雪氷の世界はいささか無機質でもあり、ミズキの花やナナカマドの紅葉がさりげなく出てくる新田の作品の方が、自分の好みには合うと感じました。(2008/10)