『琉球の蝶』(伊藤嘉昭著/東海大学出版会/2800円+税)
 日本の生態学の先駆者の一人である伊藤先生が、現役を退かれた後に身近な場所でナチュラリストとして調べられたことに基づいて書かれた本です。「ツマグロヒョウモンの北進と擬態の謎に迫る」という副題の通り(なぜこの副題を書名にしなかったのか不思議ですが・・)、主役は北上傾向が著しく、関東ではすっかり普通種になってしまったツマグロヒョウモンです。ツマグロヒョウモンの雌は翅の先が三角形に黒くなっており、この模様は毒を持つチョウであるカバマダラに擬態(有毒者に似るベーツ型擬態)していると考えられていますが、伊藤先生の問題意識は、ツマグロヒョウモンが北上しモデルの有毒チョウであるカバマダラのいない地域に分布を広げている中で、その目立つ羽が生存に不利に働いているようには見えないのはなぜかということです。ツマグロヒョウモンの北上自体には関心を持ってきましたが、そうした視点で考えたことはなかったので、まず新鮮に感じました。北上を成功させた要因についての、著者の見解は、温暖化による冬の気温の上昇と、園芸的に植えられるパンジーの葉が冬の餌を供給した2点をあげておられます。擬態と関係した肝心の謎については、名古屋付近での季節を追った再捕獲法による個体数の推定、幼虫のカウント、羽についている鳥の嘴にかまれた痕による補食率などを手がかりに論じられていますが、まだはっきりした結論が提示されているわけではありません。著者は、ツマグロヒョウモンが純粋なベーツ型擬態者ではなくて、羽に多少とも毒を持つミュラー型擬態者であるという仮説を支持されているようですが、結論は下されていません。文章としてはむしろ、擬態の進化についてのさまざまな仮説の紹介に力が注がれていて、ツマグロヒョウモンのように雌だけに擬態が生じるケースがある理由などが考察されています。最終章で、今後の課題として雌雄の個体数の精度の高い推定、雌雄による飛行速度の違い(これは鳥の補食の成功率に関わる)などをあげておられますが、これらの研究はアマチュアでも取り組めるもので、そうした問題意識を持って身近な生物の研究に取り組むようにというメッセージがこめられていると思いました。やや、物足りなかったのは、捕食者である鳥の実像がはっきりしないことです。羽に嘴の痕のある個体は1割くらいにもなるということですから、相当鳥がねらっているのでしょうが、そうしたシーンを目にしたことがありません。そのあたりの解明も重要だと思いました。(2010/3)